Q32.わた・コットンの歴史
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世界文明の中の[わた]
世界文明の中で身につける繊維を見渡してみると

わた・コットンを衣類として使っていた事が解っている文明は「インダス文

明」と「古代インカ帝国」はじめ「アステカ文明」であることが解っています。

その他の「黄河文明」は絹やその他の繊維、「エジプト文明」では亜麻が

使われていました。水辺を中心とした文明の発展かどうかによって着用す

る衣類に使われる繊維は違ってきます。「ギリシャ文明」にわたが伝わった

のはアレキサンダー大王による遠征によってでした。海のシルクロードや

陸のシルクロードによって様々な種類のわたが世界中に伝わって行きまし

た。
日本におけるわた[綿]の歴史
日本は世界最大綿消費国ですが、歴史のひもをといてみると日本にわた

[綿]が入ってきたのは奈良時代インダス文明発祥の地を出発してシルクロ

ードを経て中国・朝鮮経由にて輸入されたのが広く普及していきましたが、

それ以前は延暦18年幡豆郡天竺村(今の愛知県西尾市)に漂着した、

崑崙(コンロン)人によってもたらされました。

しかし、綿種は高温地綿種であったため日本では繁殖しませんでした。

シルクロード経由の綿種はいち早く三河地方に伝わり栽培生産され商品

化されているます。国産木綿が初めて文献に見えるのは、永正7年興福寺大

乗院に残っている「永生年中記」に「三川木綿」と記されています。三河

産の木綿が商品として出回っていたのです。

しかし、一般庶民にとって木綿製品は高級品でした。庶民の身近な衣服

に使われていたものは葛(くず)・山藤・山桑・大麻等の野生樹木の繊維

布でよく使われていたのは麻や苧麻でした。絹は献上品としての需要

が主なものでした。

木綿製品が庶民のものになったのは江戸時代に入ってからで、絹織物

の着用が厳しくなるにつれ木綿製品が普及してゆきました。記録では

寛永5年(1628)百姓の衣料は「庄屋は妻子共絹袖布木綿・脇百姓は布

木綿許可着巣之」とあり。より厳しくなり慶安2年(1649)の御触書では

「百姓は衣類の儀、布木綿よりほかは帯・衣裏にも絹つつまじき事」と命じ

ています。みなさまおなじみの徳川吉宗の時代に絹織物の着用が禁じら

れたことは有名ですよね。

日本国内で栽培される綿の繊維は短く扱いにくいものでした。家内工業と

しての綿製品では扱えても機械工業としての綿製品には不向きな品種だ

ったので100種類を越える品種が日本国内にありましたが、そのほとんど

は繊維が長い外国で生産されている品種に押され土着種となった綿は

絶滅し、現在確認が取れている品種は20種類ほどとなっています。

日本における繊維出土
時代 食物繊維 動物繊維
縄文時代(紀元前約13000年〜1000年頃)
草創期
前 期
後 期
大麻
アカソ
苧麻
 
弥生時代(紀元前4,3世紀〜紀元3世紀頃)
前期
中期
後期
藤(楮か科?)

楮か穀
(木綿ユウの材料)
絹(平絹)
絹(撚糸)
絹[魏志倭人伝による綿マワタ、アシギヌ錦]
(ケンと錦の存在が推測できる)
古墳時代(3世紀後半〜6世紀頃)
前期
(ケン、おきすじのある平絹、絹と苧麻の交織物)
中期
後期
絹(錦、縞織り(絣織り)、天蚕様と家蚕の交織綴織様、琥珀織様、綾、撚紐)
奈良時代(8世紀)
  木綿
(船載品)
絹(刺繍、羅、綺、紬、縮緬、マワタ、レース編
、組み紐)
羊毛、ラクダ毛(船載品)
                                    布目順郎氏による
アメリカにおける[わた]の歴史
アメリカはコロンブスの大陸上陸以降イギリスの清教徒革命以後国を追わ

れた人、一攫千金を目指した人たちによって開拓されました。

このころの北アメリカと南アメリカは産業構造が違います。北アメリカは工

業的に発展し、南アメリカはプランテーションによって成り立ちました。

そのプランテーションを主に支えたのは「アフリカ」よりつれてこられた黒人

奴隷達でした。その前はラテンアメリカよりつれてこられた人たちでした。

プランテーションの主な栽培品種は[わた]です。綿の栽培にはとても手間

がかかるために人手不足を補うためによそからつれてこなければいけませ

んでした。これが人種差別の始まりと言っていいでしょう。

黒人奴隷は一山いくらで売り買いされ、特に妊娠中の女性や屈強の若者

は高い値で売れたとか・・・人身売買で多額の富を蓄えた人も現れました。

プランテーションの農場主の仕事は奴隷によって栽培された農産物のみな

らず働かせている奴隷そのものも商品でした。

有名な著書「風と共に去りぬ」に描かれている華やかな生活はすべて黒人

達の犠牲に立ったものでした。

農場につれてこられた人たちの多くは「部族」の長または有力者によって

裏切られ、だまされてつれてこられた人が多く、アフリカよりつれてこられる

迄の船の船内は家畜以下の環境で伝染病などで多くの人が命を失いまし

た。無事生きてアメリカ大陸の地を踏んだとしても過酷な労働環境と人間

らしい生活は送ることは出来ませんでした。

その苦しい生活環境の中で故郷を思って生まれたのが「黒人霊歌」でその

伴奏をするために「JAZZ」が生まれたと言われています。

リンカーン大統領が誕生し、南部解放により黒人達はプランテーションより

解放されました。その中での綿栽培は人手を必要としない農業への転換を

迫られ、機械化をし、病害虫に弱い綿は農薬を飛行機によって撒かれるように

なり、刈り取りも作業の効率化によって枯れ葉剤を使用しての収穫という

手段に変わりました。

それまでに栽培されていた色つきのコットン(カラードといいます)は生産過程

において品質劣化の原因になるという理由で破棄され続けました。

アメリカにおいてのオーガニックコットンの栽培の始まりはアメリカの学者

サリー・フォックス女史によってペルーの原種がアメリカにもたらされたのが

そもそものきっかけといわれています。オーガニックコットンの認証はアメリ

カが一番最初に始めたものです。当初の頃は多くの農場がオーガニック

コットンの栽培に取り組みましたが、最近は少々下火になっているそうです。

アメリカの一部の州では綿のオーガニック栽培の禁止及びカラードコットンの

栽培禁止など州法によって定められるケースが有り、オーガニック認証先進国

であるはずのアメリカにおいておかしな現象がおきています。

コンベンショナルコットン(通常栽培コットン)の相場は最古の取引所である

New York Cotton Exchange(ニューヨーク綿花取引所)によって決まります。

オーガニック綿花は農場との直接取引かドイツの綿花取引所等限られた取

引所にて扱われています。
ペルーにおける[わた]の歴史
歴史的にはまだ解明されていない部分がありますが、紀元前2000年以

上前から栽培されていたのではないか、との説があります。インカ帝国の

スペイン侵略によりそれまで栽培されていた品種はほぼ絶滅し、細々と末

裔達が栽培していたことが解っています。オーガニックコットンが栽培され

るようになってきたのは1980年に『NATIVE COTTON COLOR PR

OJECT』がきっかけとなっています。それまではインカ帝国の崩壊により

豊かな農地は失われ大土地所有制度と大農園による支配農業が中心

で、国の経済や政治を牛耳っていました。1960年代に農地改革がなされ

大農園や大地主から土地は接収し、それを分配または協同組合形式によ

る運営がなされました。しかし、解放された農地はわずかで協同組合が管

理する農地に貧農が占拠したり、協同組合の新・旧の対立が後を絶ちま

せんでした。後に日系大統領フジモリ氏によって大胆な改革がなされるま

で混乱の原因の一つとなっていたようです。

最貧民層の支持を得てフジモリ氏が大統領になったことで様々な改革が

なされました。土地私有化の強化、農業協同組合の私有化などの政策、

最貧民層の緊急救援プログラムの開始などによりオーガニックコットンの

生産が可能となりました。主に最貧民層の農民達の労働力と子供達のお

小遣い稼ぎのための害虫取りなどによってオーガニック栽培を支えていま

す。この人達が緊急プログラムに関わるあるいはオーガニックコットンの

栽培をすることは「コカ」の栽培を減らすことが出来、テロなどの資金源を

絶つことが出来ると考えられ実際にペルー国内におけるテロ事件が激減

しています。コカによって身体がむしばまれて教育の機会を失う事が多い

ことも国の悩みの一つでした。しかし、コカの栽培が少なくなると健康が

保たれ、教育を受ける機会が増える事につながります。

しかし、コカの栽培は必要不可欠な処もあります。それは私たちの身近な

機関 そう、医療の現場においてコカからつくられた麻酔薬は使われてい

ます。

コカよりつくられるもの
作用     弱い  →  強い
コカイン 麻酔薬(モルヒネ等) 覚醒剤
参考:夢織人 
   ペルー 太平洋とアンデスの国近代史と日系社会 増田義郎/柳田利夫著
   歴史的にみた染色の美と技術 柏木希介編